太閤殿下の伏見城散歩~桓武天皇陵、明治天皇陵~


 出張で古巣の学校を訪れたついで、12年ぶりに、登城、してみた。


城下の町名は、豊臣時代の大名屋敷の割地にちなむ。 



 太閤さんこと豊臣氏羽柴家秀吉公が、いわば院庁のような城を伏見に築き始め、入城したのは、文禄三(1593)年のこと。しかし、翌々年、完成間近にして慶長伏見地震…京都盆地のとくに東側は断層だらけなので…の発生し大破、木幡山に本丸を移して再建されたのは、慶長二(1597)年のこと。再建前のものを指月伏見城 、再建後のものを木幡山伏見城という。 このとき、宇治川を巨椋池から切り離し、北に流路を変更し、治水と共に、外濠の役割とした。小倉堤には新たな大和街道が設けられている。
 とはいえ、朝鮮半島では、義の立たない、無益で無謀な戦の行き詰まり、悲惨な状況に陥っている頃。しかし、それを命じた太閤殿下自身は、心身の弱り、戦に飽いて、一粒種の嫡子の幼い秀頼公を溺愛し、現実逃避のように醍醐の花見を催すなど、死出の旅路に向かう頃。
 翌々年の慶長三(1598)年、薨去。

 その後は、豊臣政権の五大老筆頭格の内府殿家康公が、亡き太閤殿下に替わり政務の主導権を巧みに奪い、徳川家の権力基盤を着々と整備。伏見城は、その政庁となった。

 慶長五(1600)年の関ヶ原の合戦の前哨戦では、石田(毛利)方の西軍に攻め立てられた鳥井元忠以下忠臣が奮戦、全員、自刃。伏見城の華麗な殿舎も大半が消失した。
 徳川家によって再建された伏見城において、慶長八(1603)年、後陽成天皇が参議の勧修寺家藤原光豊卿を勅使として遣わされ、家康公に征夷大将軍の宣下がなされる。

 しかし、豊臣氏の滅亡後、元和五(1619)年から九(1623)年にかけて廃城、城郭は解体されて、殿舎や諸々の部材は、徳川将軍家の京での拠点となる二條城、京坂の要所の淀城、備後の福山城などに移された。
 こうして、大坂城や聚楽第と並ぶ、桃山文化の象徴ともいえる伏見城は、太閤殿下の築かれた豊臣氏と共に、夢のまた夢、はかなく消えていった。
 ちなみに、桃山という地名は、後年、元禄の頃までにか、城の跡地に桃の木が植えられたことによる。桃山文化の時代には、桃山という地名はなかった。

 さて、古代へ時を遡ると、山城の、長岡京、平安京へ遷都を断行された桓武天皇の治世を顕彰し、『延喜式』に永世不除の近陵として記されている柏原陵は、平安時代をとおして大宮人の厚い崇敬を集めた。
 比定地は判然としないが、太閤殿下の伏見城の縄張りに取り込まれてしまったらしく、現在は、城跡の北西に陵墓として整備されている。






二礼二拍一礼をして参拝


城の石垣に使われていたのであろう石がそこかしこに残る。


三成の屋敷地、石田治部少輔郭のあたり


沈香のような霊験灼かな気を感じる。

 時代は下り、明治は遠くなりにけり。
 明治四十五(1912)年に崩御された明治天皇は、御遺志により、江戸改め東京のある関東ではなく、桓武帝以来の王家代々の山城の京に葬られることに。
 そこで選ばれたのが、伏見城の本丸跡。現在は、伏見桃山陵と申し上げ、すぐ東には、照憲皇太后こと一條家の藤原美子皇后の陵墓も設けられた。御仲睦まじく、京に還御あそばされている。




城の本丸付近の石垣に使われていたのであろう石材



二礼二拍一礼をして参拝




 補遺のような話になるが(笑)、東京オリンビックの開催され、東海道新幹線の開業した、昭和39(1964)年、伏見城の花畑跡に、近鉄が投資をして、伏見桃山城キャッスルランドという遊園地を設けた。このとき、大小の模擬天守が造られた。 
 しかし、その後の、少子化やレジャー産業の変容により、業績は悪化、再建は不可能と判断され、平成15(2003)年に閉園。模擬天守は京都市に無償贈与された。現在、遊園地の跡地は、伏見桃山城運動公園となっている。







 






 ふと、下城の折、太閤殿下から「よぉ、来たか」と、剽軽な笑顔で、お声を掛けられたような気のした(笑)。