
8月11日、尾道。
♪…あの夏の日 あの夏の日よ 輝かにあれ
1999年大林宣彦監督作品 新尾道三部作第三作 尾道市制百周年記念映画
「あの、夏の日~とんでろ じぃちゃん~」の趣で、まず前半は参りましょう。
「由太」君の通う横浜市立桂小学校(ロケ地)ではなく、京より出発。
ちなみに、私の青春も、横浜市の郊外の高校にありました(笑)。
今日、住まう京より仰ぎ、東に横浜、西に尾道、摩訶不思議な、心の時空の繋がります。


当時の100系「グランドひかり」はとうになく、700系「ひかりレールスター」にて。
指定席の一つくらいと思いきや、帰省と行楽ラッシュの折、短編成の「ひかり553号」は満席。
♪…あの夏の日 あの夏の日よ 輝かにあれ
1999年大林宣彦監督作品 新尾道三部作第三作 尾道市制百周年記念映画
「あの、夏の日~とんでろ じぃちゃん~」の趣で、まず前半は参りましょう。
「由太」君の通う横浜市立桂小学校(ロケ地)ではなく、京より出発。
ちなみに、私の青春も、横浜市の郊外の高校にありました(笑)。
今日、住まう京より仰ぎ、東に横浜、西に尾道、摩訶不思議な、心の時空の繋がります。


当時の100系「グランドひかり」はとうになく、700系「ひかりレールスター」にて。
指定席の一つくらいと思いきや、帰省と行楽ラッシュの折、短編成の「ひかり553号」は満席。

やむなく自由席。この混雑ながら、寸手のところで、B席に着席。
普通車の3人掛けの中央席は、平成になって経験なく。グリーン車慣れした身にはつらい。
当然、この日は、4号車のサイレンス・カーの設定もなし。
新大阪、9:59発。
福山、11:03着。
「尾道(新尾道)の一つ手前の福山駅に下りたら、おばぁちゃんが待っていた。」


「新幹線は、新尾道の駅にも停まるんじゃけど。
おじぃちゃが、どうしても、福山から在来線に乗り換え言うてんじゃけん。
海沿いに汽車で来りゃあ、わしが空ぁ飛んで途中まで迎えに行ってやるけ、言うて。
聞いてないんじゃけん。」
福山、11:10発、岡山からの三原行き443M。
なんとなく懐かしさを覚える、垂直の背もたれの近郊形シートの115系電車。
「窓の外を眺めた。何かゞ、さぁっと横切った。燕にしちゃぁ、でかいなぁと思った。」


「あっ、おじぃちゃんが飛んでる!」
「どうかしたんね。はぁ、由太までボケてしもうたかと思うて、びっくりしたがね。」
新尾道大橋は、「あの、夏の日」のロケの頃は建設途中でした。
11:28、尾道着。
猛暑を避けるのに、あえて台風の近づくであろう天候の日を選んだという。
雨はまだ降っておらず、炎天下でもなく、いけるかな。


上りホームには、117系。
言わずも、往年の京阪神の新快速シティーライナーに使われた電車。
その後、岡山地区の快速「サンライナー」として余生を送りつゝ、日中はそれもなくなり普通列車。
途中下車扱いで手許に残そうと、一つ先の糸崎まで買った乗車券。
…「尾道」の下車印も、自動改札機で印字するようになったのに驚き。
そういえば、糸崎は、グロ氏の母君の郷里でしたね。


「ほらぁ、耳澄ましてみぃ。蝉の声はするし、川の流れる音がするじゃろ。
あのピーコピーコ言うとるのは、カワセミいう鳥じゃ。」
「でもでも、おじぃちゃん、こゝは確かに川のように見えるけど、これは、海なんでしょう?」


♪…夢のまきまきに 憧れよ み空へ
「向島、行くとのぉ、そりぁゝ、きれいな緑の畑があって、小川が流れとる。
メダカやドジョウがいっぴゃぁおる。鯉も泳いどるぞ。」
「向こうの島に渡るんだったら、ほら、あそこにフェリーがあるよ。」
「ふんっ、車が山ほど載っとる。あんなもんは、船じゃにゃぁ。」
「じゃぁ、じゃぁ、おじぃちゃん。向こうに橋があるよ。」
「あきれたもんじゃ。海で泳げにぁゝ子供がいるとはのぉ。
そいじゃぁ、奥の手を使うとするか。
目ぇ瞑れ、それから、わしがえゝぞと言うまで、息を止めるんじゃ。わしの手ぇ握れ。」
マキマキマキマキマキマショウ、マキマキマイタラ、夢ん中。
マキマキマキマキマキマショウ、マキマキマイタラ、約束ね…。
と、唱えて時空を飛び越えたいところなれど、「おじぃちゃん」の「亡くなった」今はできず(笑)。
泳げない「由太」君よろしく、尾道渡船に乗りましょう。
駅前から僅か1kmの幅の間に、他に、駅前渡船、福本渡船、しまなみフェリーと、4本の航路。
海の横断歩道か、海の道。交通行政でも、道路として扱われているとか。


セーラー服の女の子は、「北高」こと、広島県立尾道北高等学校の生徒。たぶん。
大正14年開校の「尾中」こと旧制尾道中学校(後に県立)以来、学力は尾道でトップとか。
大林宣彦監督の母校でもあります。
たゞ、「東高」も同じセーラー服。そちらは、さらに古い旧制高等女学校を前身。
次回のNHKの朝の連続テレビ小説「てっぱん」で話題の学校。後ほど触れましょう。


乗船は1回100円。船内を歩き回っているおっちゃんに払います(笑)。
あっという間に、対岸の向島。

向島から見る、尾道市街。こんもりした山には千光寺。
そういえば、こういうものもありました。
渡船乗り場の前の、バスの待合室になっている、映画「あした」のロケセット。
新尾道三部作の第二作。
ある日の午前零時、沈没した「呼子丸」の浮上し、死者と再会できるという話。


大林宣彦監督の流儀は、けして映画の記念物を残さないこと。
安易な商法で「街興し」に使われ、街の文化を貶める「街壊し」になるのを何より忌避されます。
「我が古里、尾道よ、文明の尻っぽたるより、文化の頭たれ。」
尾道の暮らしの智恵と文化の中に映画はあり、それらを映画で壊してはいけない。
その哲理を一貫してお持ちです。
思えば、最初の尾道三部作の公開された’80年代前半は、私たちの高校時代でした。
青春の所為にせよ、あの頃、人品は優しく、思慮に富み、清々しいほど潔かったのですよ。
今にしてみれば、現代日本の峠の群像と、いつも私の申す所以ですが。
本当に、高校時代に出逢った人たちは「美人」でしたもの。人品が、美しくさせたのです。
水商売資本や無節操な市場の論理を、文化で律するバランスは、人としての誇りでした。
教養の普通にある家庭に育てば、まだ、遺伝のように美徳を受け継いだもの。
ゆゑに、ひたむきに人を想い、敬愛とか思慕も、互いに自然と心に深く感じたのです。
交わす手紙の言葉は、そのまゝでも、文学、詩、と申せましたでしょう。
高等学校の、ことに女子教育を、自身、志すことになるのも、端緒はそこにあります。
一流の精神、とも。先日も、生徒向けの音楽談話で、私はそんな話を書きました。
今うっかり、「一流」の語を言うと、名利の効能に誤解され、哲理を疎通できない場合も多々。
上野千鶴子女史の評論「〈私〉探しゲーム」では、’60年代をもって「近代の終焉」を宣言。
「わたしはわたし」という一貫性のある「近代的自我」は、多様化した現代では崩壊した、と。
あるいは、私たちは、個性やアイデンティティを敬慕し合った、生き残りであったかも(笑)。
その人にしかない徳を見つめ、尊び、慕い、愛することを覚えていた、最後の世代。
自我の確かな、大人らしい高校生の魅せた、最後の文化を生きたのかもしれず。
’80年代の若者全体は、三無つまり、無気力、無関心、無感動と、揶揄された世代。
しかし、三無は、サヨク的な型でしか政治参加を知らない大人世代の、若者への偏見でしょう。
若者は若者で、そういう欺瞞を見抜き、もっと自由に本質を求めようと、豊かに表現力を発揮。
たまたま私の環境がそうだったのか、丙午学年は、高校でも大学でも才気煥発創造的。
高校では、4期連続で生徒会長を輩出、「お祭り松陽」よろしく、学校を仕切っていました(笑)。
音楽家、美術家、科学者、事業家、マスコミ、良妻賢母…末は天下一品になろう才能ばかり。
よくぞ一介の県立高校でこれだけ集まったなと、神がゝっていましたね(笑)。
横浜を中心に高校生のバンドコンテストを主宰、アルフィーや渡辺真知子さんを招聘したK君。
水彩画とCGを専門に、やがて日本のCGデザイナーの先駆になったMさん。
少年の夢のまゝに、本当にパイロットになってしまったグロ氏(笑)。
行く末、朋友たちは、この国を背負っていくのではと、当時、信じておりましたもの。
私の高校時代の役は、クラブ(同好会)の副会長に始まり、そこから青春の舞台へ。
生徒会執行部の副会長、文化祭の実行委員会の副委員長、図書委員会の副委員長。
素質は美術系、嗜好は音楽系、好奇心は人文から自然科学へと、10倍楽しんだ3年間(笑)。
何より、素敵な出逢いに恵まれ、恋事に明け暮れました(笑)。
「先輩のような人には、二度と出逢えないような気がするのです。」
浪人時代、誰よりも慕う、私の心そのものゝ、ある後輩の女の子からもらった言葉。
「先輩には、Goin’ my way というより、Makin’ my way というふうに生きてほしい」と。
現役で先に大学へ進んだ、その彼女からは、こんな言葉も。
「高校の時は、先輩にしても、誰々君にしても、人間洞察力に長けた人が多かった。
けど、A大学の人たちは、言葉の表面でしかとってくれない。軽っぽいガッコだな。」
今思うと、時代の過渡期を捉えていたのでしょうね。
でも、独立の気概に溢れた聡明な朋友たちの、まさか時代に呑まれていくとは、つゆ思わず。
別の後輩からは、こんな声も聞かれるように。
「人を好きになるってどういう感覚ですか、どうなったらつき合っているというんですか?」
さらに、「北園さんは、ビンボーだから、テニスなんて高尚なことはしないんでしょう?」と、皮肉。
高尚という言葉の意味を知らないのか、と、思わず絶句したのを憶えています。
バブル経済の煽りで、何かゞ急速に崩れていく、人間と文化の凋落を予感。
やがて、自我は見失われ、恋愛も結婚も、商業の対象に組み込まれ、規格化されていきます。
「体育会系」という言葉がもて囃され、文化部は、暗い、オタクと、蔑視される風潮に。
企業戦士として体力のあり、思想をもたぬ、制御のしやすい器械的人間を作る狙いでしょう。
従前の、武士道や騎士道、スポーツマンシップとは別の、人を律する哲学のない俗語です。
以後、学校の文化は灰燼に帰し、若者は市場の提供する快楽を貪るだけの消費者に。
大学での私は、専攻の学部生の研究会の会長や運営委員長、卒業祝賀会の幹事長など。
パワーのある同じ年齢の先輩諸氏に恵まれた反面、もう、年下の世代とは一線を画す傾向。
先生方の学生時代に始まり、純粋に国文学の各専門領域を探究していく、研究会。
本来は一目置かれたのに、反対に敬遠されるという、劇的な視線の変容。悩まされました。
学業を修めることが正価値でなくなり、学生は、ひたすらカネを使い遊び倒すことが、普通。
空前の売り手市場で、就職内定を濫発、企業は学生を誘致するのにホテルで豪華な接待。
時に大学4回生、私は、求婚していた都合、大学院へは進まず、帰浜して企業の面接へ。
「あなたは、友達がたくさんいるでしょう?」と、取締役であったN島氏のご明察。
N島氏は、さすがに、ありし日の私の持ち味をよく見抜かれました。
しかし、入社の同期といっても、多くは年下の、バブル世代。
昭和的モラリストでロマンチストの私の言うことなどは通じず、だんだんと仲間はずれに(笑)。
ゆゑあって、勤めて3年後、私の退社する際、N島氏の曰く、
「君は、人材としては有望だったんだが…」と。
あくまで歴史の視座で正価値を見て下さりつゝ、氏も、たしかに、この国の滅びゆく先を予見。
故・司馬遼太郎先生は、土地投機の激しくなった頃、一言、「卑しい国になってしまった」と。
晩年は、小説を書く筆を折り、足を使って人文地理の随筆や講演に力を注がれました。
物流で譬えれば、ヒト、モノ、カネのうち、モノとカネにしか価値を知らなくなった、とは道愚氏の言。
つまり、現在は、形而上の文化を生産し洗練していく、ヒト、に尊さを覚えない時代である、と。
先達方は、人の世の幸せも不幸も知るゆゑ、皆さん一様に警鐘を唱えられるのです。
こうなると、民度は、レヴェルダウンの釣瓶落としをいくしかなくなります。
学生の、知性や創造力、社会性の衰え、いわゆる学力低下や幼稚化も、機を一に。
民放の、娯楽というより、あまりに程度の低い番組内容に、如実に顕れているでしょう。
映っているのは現今の日本人の品格であり、それを視ている児童、生徒も、成長できません。
NHKは、志のある高質の番組作りに懸命ですが…生徒は視ませんもの。
時代の変化と申せば詮なく、日本人の美徳は、’80年代後半から瓦解しておりました。
あの青春の心のあったことさえ、顧みられず、気づけば時代に呑まれ変容していくよう。
峠から転げ堕ちた民度を回復するのは、これほどに難しいものかと、以来、奮闘して今日まで。
戦争の物理的な破壊以上に、人品を形成する文化を断つことの傷の深さを、今後の戒めに。
今は、優しく、豊かであった、心の時を歩いて参りましょう。
さて、それでもモニュメントを求めたい向島観光協会との、妥協点かしら。
映画の中では船着き場のセットを、外装を塗り替え、尾道市営バスの待合室に転用。


「でも、もしかすると、犯人はおじぃちゃんじゃなかったかも。」
「なんじゃと。」
「僕がその小指を拾ったのは、賢司郎君が棒で弥勒さまの右手を壊す前じゃったんだもん。
もう一回、長恵寺へ行って、確かめてみようよ。」
「おじぃちゃん」と「由太」君の語り合った、ぼんぼん岩は、どれでしょう(笑)。
さて、再び尾道市街へ上陸し、山陽本線の線路を潜り、千光寺新道を上ります。
「むすび豆」の御利益、今回は如何に(笑)。
「暗夜行路」の想を構えた当時の、お馴染みの志賀直哉旧居。
本日は水曜とあり休館なのか、エアコンの入れ替え中。


3年前の、「-I LOVE- おのみち 何かを思い出すために、何かと出会うために」。
自動販売機もまるごとポスターになっていた、あの画像の撮影場所はこゝ。
あのメーテル風?のモデルの美女は誰だったのでしょうね。噂では地元の女の子らしく。
思い出してみましょう。
時の逍遙・丁亥夏
たまたま歩いていると、何かしら見つかります。
しかも、こゝは山白屋。
「そいじぁゝ、皆さぁん。元気に、ラジオてゃぁしょぉ(体操)致しましょぉ。
手を腰へ。よぉい、始めっ。おいっちにぃ、さんしぃ。」
ボケた(と思われている)「おじぃちゃん」が、葬列に割り込んで、ラジオ体操をする場面。
美術監督の故・薩谷和夫氏のお葬式という設定で、ロケをしてしまったのですね。
生前、さりげなく映画の中に顔を出すのもお好きだったという薩谷氏、きっとご満悦でしょう(笑)。
さらに千光寺新道を上った四つ角は、尾道三部作の第一作、「転校生」の名所。
東に入ると、「おじぃちゃんの家」つまり「大井家」の外構、福井邸の階段下からの眺望。
どこからでも、海と、尾道大橋、新尾道大橋の、目に映ります。
「ねぇ、おじぃちゃん。どうして海を泳いで渡らなくちゃいけないの?」(由太)
「人間が、海を忘れるからじゃ。」
「じゃぁ、橋はいけないものなん?」(ミカリ)
「昔、向島に住むわしの教え子が、夜中に病気になった。
急いで船を仕立てゝ、尾道の病院へ運ぼうとしたが、間に合わんで、死んでしもうた。
こゝに橋があったら、自転車で、さぁって運べて、どんなにえゝじゃろうと、みんなが思うた。
じゃがのぉ、実際に橋が架かると、便利じゃ、便利じゃ、言うて、そういうことはすぐに忘れてしまう。
橋に、ありがとう、いう、気持ちを忘れんためにも、元気な人間は泳がにぁゝいけん。」
「ふぅん…。」(由太、ミカリ)
この橋を、文明の象徴などゝ奢った見方をしてはいけない。
不便だった頃を忘れず、感謝を忘れず。
そうして、智恵のありがたさ、精神の豊かさ、つまり文化の受け継がれるもの。
大林映画の描こうとする、尾道の心、なのかもしれません。
かゝる旨の監督の随筆「今こゝにいるということ」は、中学校の教科書にも採録されていますね。
「きれいじゃろぉ。尾道じゃ。由太は何年ぶりかのぉ。」(おばぁちゃん)
「6年ぶりです。」


少し山側に目を移すと。
浄土寺の上、映画「ふたり」のタイトル(千津子の事故現場)の坂道の上に、村上氏の別荘。
3年前の夏、偶然、呼びとめて戴き、ビールまでご馳走になり(笑)、以来、ご夫妻とおつき合い。
平素は吹田市にお住まい。ご主人の実家は因島とあって、尾道へ。
ご主人は、企業を定年退職後、抽象画のアマチュア画家として、別荘をアトリエに。
個展にもご招待戴きました。
「在宅なら雨戸は開いている」との仰せでした。閉まっており、残念ながら、ご不在。
さて、天寧寺はどこから入るのでしょう。
ふいに、三重塔。威容から察するよう、元禄5年までは五重塔でした。
そういえば、こういうものもありました。
渡船乗り場の前の、バスの待合室になっている、映画「あした」のロケセット。
新尾道三部作の第二作。
ある日の午前零時、沈没した「呼子丸」の浮上し、死者と再会できるという話。


大林宣彦監督の流儀は、けして映画の記念物を残さないこと。
安易な商法で「街興し」に使われ、街の文化を貶める「街壊し」になるのを何より忌避されます。
「我が古里、尾道よ、文明の尻っぽたるより、文化の頭たれ。」
尾道の暮らしの智恵と文化の中に映画はあり、それらを映画で壊してはいけない。
その哲理を一貫してお持ちです。
思えば、最初の尾道三部作の公開された’80年代前半は、私たちの高校時代でした。
青春の所為にせよ、あの頃、人品は優しく、思慮に富み、清々しいほど潔かったのですよ。
今にしてみれば、現代日本の峠の群像と、いつも私の申す所以ですが。
本当に、高校時代に出逢った人たちは「美人」でしたもの。人品が、美しくさせたのです。
水商売資本や無節操な市場の論理を、文化で律するバランスは、人としての誇りでした。
教養の普通にある家庭に育てば、まだ、遺伝のように美徳を受け継いだもの。
ゆゑに、ひたむきに人を想い、敬愛とか思慕も、互いに自然と心に深く感じたのです。
交わす手紙の言葉は、そのまゝでも、文学、詩、と申せましたでしょう。
高等学校の、ことに女子教育を、自身、志すことになるのも、端緒はそこにあります。
一流の精神、とも。先日も、生徒向けの音楽談話で、私はそんな話を書きました。
今うっかり、「一流」の語を言うと、名利の効能に誤解され、哲理を疎通できない場合も多々。
上野千鶴子女史の評論「〈私〉探しゲーム」では、’60年代をもって「近代の終焉」を宣言。
「わたしはわたし」という一貫性のある「近代的自我」は、多様化した現代では崩壊した、と。
あるいは、私たちは、個性やアイデンティティを敬慕し合った、生き残りであったかも(笑)。
その人にしかない徳を見つめ、尊び、慕い、愛することを覚えていた、最後の世代。
自我の確かな、大人らしい高校生の魅せた、最後の文化を生きたのかもしれず。
’80年代の若者全体は、三無つまり、無気力、無関心、無感動と、揶揄された世代。
しかし、三無は、サヨク的な型でしか政治参加を知らない大人世代の、若者への偏見でしょう。
若者は若者で、そういう欺瞞を見抜き、もっと自由に本質を求めようと、豊かに表現力を発揮。
たまたま私の環境がそうだったのか、丙午学年は、高校でも大学でも才気煥発創造的。
高校では、4期連続で生徒会長を輩出、「お祭り松陽」よろしく、学校を仕切っていました(笑)。
音楽家、美術家、科学者、事業家、マスコミ、良妻賢母…末は天下一品になろう才能ばかり。
よくぞ一介の県立高校でこれだけ集まったなと、神がゝっていましたね(笑)。
横浜を中心に高校生のバンドコンテストを主宰、アルフィーや渡辺真知子さんを招聘したK君。
水彩画とCGを専門に、やがて日本のCGデザイナーの先駆になったMさん。
少年の夢のまゝに、本当にパイロットになってしまったグロ氏(笑)。
行く末、朋友たちは、この国を背負っていくのではと、当時、信じておりましたもの。
私の高校時代の役は、クラブ(同好会)の副会長に始まり、そこから青春の舞台へ。
生徒会執行部の副会長、文化祭の実行委員会の副委員長、図書委員会の副委員長。
素質は美術系、嗜好は音楽系、好奇心は人文から自然科学へと、10倍楽しんだ3年間(笑)。
何より、素敵な出逢いに恵まれ、恋事に明け暮れました(笑)。
「先輩のような人には、二度と出逢えないような気がするのです。」
浪人時代、誰よりも慕う、私の心そのものゝ、ある後輩の女の子からもらった言葉。
「先輩には、Goin’ my way というより、Makin’ my way というふうに生きてほしい」と。
現役で先に大学へ進んだ、その彼女からは、こんな言葉も。
「高校の時は、先輩にしても、誰々君にしても、人間洞察力に長けた人が多かった。
けど、A大学の人たちは、言葉の表面でしかとってくれない。軽っぽいガッコだな。」
今思うと、時代の過渡期を捉えていたのでしょうね。
でも、独立の気概に溢れた聡明な朋友たちの、まさか時代に呑まれていくとは、つゆ思わず。
別の後輩からは、こんな声も聞かれるように。
「人を好きになるってどういう感覚ですか、どうなったらつき合っているというんですか?」
さらに、「北園さんは、ビンボーだから、テニスなんて高尚なことはしないんでしょう?」と、皮肉。
高尚という言葉の意味を知らないのか、と、思わず絶句したのを憶えています。
バブル経済の煽りで、何かゞ急速に崩れていく、人間と文化の凋落を予感。
やがて、自我は見失われ、恋愛も結婚も、商業の対象に組み込まれ、規格化されていきます。
「体育会系」という言葉がもて囃され、文化部は、暗い、オタクと、蔑視される風潮に。
企業戦士として体力のあり、思想をもたぬ、制御のしやすい器械的人間を作る狙いでしょう。
従前の、武士道や騎士道、スポーツマンシップとは別の、人を律する哲学のない俗語です。
以後、学校の文化は灰燼に帰し、若者は市場の提供する快楽を貪るだけの消費者に。
大学での私は、専攻の学部生の研究会の会長や運営委員長、卒業祝賀会の幹事長など。
パワーのある同じ年齢の先輩諸氏に恵まれた反面、もう、年下の世代とは一線を画す傾向。
先生方の学生時代に始まり、純粋に国文学の各専門領域を探究していく、研究会。
本来は一目置かれたのに、反対に敬遠されるという、劇的な視線の変容。悩まされました。
学業を修めることが正価値でなくなり、学生は、ひたすらカネを使い遊び倒すことが、普通。
空前の売り手市場で、就職内定を濫発、企業は学生を誘致するのにホテルで豪華な接待。
時に大学4回生、私は、求婚していた都合、大学院へは進まず、帰浜して企業の面接へ。
「あなたは、友達がたくさんいるでしょう?」と、取締役であったN島氏のご明察。
N島氏は、さすがに、ありし日の私の持ち味をよく見抜かれました。
しかし、入社の同期といっても、多くは年下の、バブル世代。
昭和的モラリストでロマンチストの私の言うことなどは通じず、だんだんと仲間はずれに(笑)。
ゆゑあって、勤めて3年後、私の退社する際、N島氏の曰く、
「君は、人材としては有望だったんだが…」と。
あくまで歴史の視座で正価値を見て下さりつゝ、氏も、たしかに、この国の滅びゆく先を予見。
故・司馬遼太郎先生は、土地投機の激しくなった頃、一言、「卑しい国になってしまった」と。
晩年は、小説を書く筆を折り、足を使って人文地理の随筆や講演に力を注がれました。
物流で譬えれば、ヒト、モノ、カネのうち、モノとカネにしか価値を知らなくなった、とは道愚氏の言。
つまり、現在は、形而上の文化を生産し洗練していく、ヒト、に尊さを覚えない時代である、と。
先達方は、人の世の幸せも不幸も知るゆゑ、皆さん一様に警鐘を唱えられるのです。
こうなると、民度は、レヴェルダウンの釣瓶落としをいくしかなくなります。
学生の、知性や創造力、社会性の衰え、いわゆる学力低下や幼稚化も、機を一に。
民放の、娯楽というより、あまりに程度の低い番組内容に、如実に顕れているでしょう。
映っているのは現今の日本人の品格であり、それを視ている児童、生徒も、成長できません。
NHKは、志のある高質の番組作りに懸命ですが…生徒は視ませんもの。
時代の変化と申せば詮なく、日本人の美徳は、’80年代後半から瓦解しておりました。
あの青春の心のあったことさえ、顧みられず、気づけば時代に呑まれ変容していくよう。
峠から転げ堕ちた民度を回復するのは、これほどに難しいものかと、以来、奮闘して今日まで。
戦争の物理的な破壊以上に、人品を形成する文化を断つことの傷の深さを、今後の戒めに。
今は、優しく、豊かであった、心の時を歩いて参りましょう。
さて、それでもモニュメントを求めたい向島観光協会との、妥協点かしら。
映画の中では船着き場のセットを、外装を塗り替え、尾道市営バスの待合室に転用。


「でも、もしかすると、犯人はおじぃちゃんじゃなかったかも。」
「なんじゃと。」
「僕がその小指を拾ったのは、賢司郎君が棒で弥勒さまの右手を壊す前じゃったんだもん。
もう一回、長恵寺へ行って、確かめてみようよ。」
「おじぃちゃん」と「由太」君の語り合った、ぼんぼん岩は、どれでしょう(笑)。
さて、再び尾道市街へ上陸し、山陽本線の線路を潜り、千光寺新道を上ります。
「むすび豆」の御利益、今回は如何に(笑)。
「暗夜行路」の想を構えた当時の、お馴染みの志賀直哉旧居。
本日は水曜とあり休館なのか、エアコンの入れ替え中。


3年前の、「-I LOVE- おのみち 何かを思い出すために、何かと出会うために」。
自動販売機もまるごとポスターになっていた、あの画像の撮影場所はこゝ。
あのメーテル風?のモデルの美女は誰だったのでしょうね。噂では地元の女の子らしく。
思い出してみましょう。
時の逍遙・丁亥夏
たまたま歩いていると、何かしら見つかります。
しかも、こゝは山白屋。
「そいじぁゝ、皆さぁん。元気に、ラジオてゃぁしょぉ(体操)致しましょぉ。
手を腰へ。よぉい、始めっ。おいっちにぃ、さんしぃ。」
ボケた(と思われている)「おじぃちゃん」が、葬列に割り込んで、ラジオ体操をする場面。
美術監督の故・薩谷和夫氏のお葬式という設定で、ロケをしてしまったのですね。
生前、さりげなく映画の中に顔を出すのもお好きだったという薩谷氏、きっとご満悦でしょう(笑)。
さらに千光寺新道を上った四つ角は、尾道三部作の第一作、「転校生」の名所。
東に入ると、「おじぃちゃんの家」つまり「大井家」の外構、福井邸の階段下からの眺望。
どこからでも、海と、尾道大橋、新尾道大橋の、目に映ります。
「ねぇ、おじぃちゃん。どうして海を泳いで渡らなくちゃいけないの?」(由太)
「人間が、海を忘れるからじゃ。」
「じゃぁ、橋はいけないものなん?」(ミカリ)
「昔、向島に住むわしの教え子が、夜中に病気になった。
急いで船を仕立てゝ、尾道の病院へ運ぼうとしたが、間に合わんで、死んでしもうた。
こゝに橋があったら、自転車で、さぁって運べて、どんなにえゝじゃろうと、みんなが思うた。
じゃがのぉ、実際に橋が架かると、便利じゃ、便利じゃ、言うて、そういうことはすぐに忘れてしまう。
橋に、ありがとう、いう、気持ちを忘れんためにも、元気な人間は泳がにぁゝいけん。」
「ふぅん…。」(由太、ミカリ)
この橋を、文明の象徴などゝ奢った見方をしてはいけない。
不便だった頃を忘れず、感謝を忘れず。
そうして、智恵のありがたさ、精神の豊かさ、つまり文化の受け継がれるもの。
大林映画の描こうとする、尾道の心、なのかもしれません。
かゝる旨の監督の随筆「今こゝにいるということ」は、中学校の教科書にも採録されていますね。
「きれいじゃろぉ。尾道じゃ。由太は何年ぶりかのぉ。」(おばぁちゃん)
「6年ぶりです。」


少し山側に目を移すと。
浄土寺の上、映画「ふたり」のタイトル(千津子の事故現場)の坂道の上に、村上氏の別荘。
3年前の夏、偶然、呼びとめて戴き、ビールまでご馳走になり(笑)、以来、ご夫妻とおつき合い。
平素は吹田市にお住まい。ご主人の実家は因島とあって、尾道へ。
ご主人は、企業を定年退職後、抽象画のアマチュア画家として、別荘をアトリエに。
個展にもご招待戴きました。
「在宅なら雨戸は開いている」との仰せでした。閉まっており、残念ながら、ご不在。
さて、天寧寺はどこから入るのでしょう。
ふいに、三重塔。威容から察するよう、元禄5年までは五重塔でした。

じぐざぐの築地塀の石段道、渡り廊下の頭のぶつかりそうな隙間やら、こんなところを潜り。
東の庫裡の脇から、唐破風向拝付きの本堂にひょっこり参上。
さて、畏る畏る、半開きの扉を入ると…。
「和尚さんは、おってんにぁゝですわ。」


あら、こゝは、「長恵寺」の本堂では!?
「賢司郎さまぁ、面白れぇもん見つけやんしたけん、お知らせしやんしょうと参じやした。」
「なんだ?」
「た・ま・む・し」
なんと、「やくざの弥勒さま」…小指のとれていたので…の鎮座ましましていたところ(笑)。
現実の檀には、ほかの仏像や模型やらを置いておりますが。
撮影では、水道に木の囲いを施し、火災報知器は目安箱のような囲いで隠したのでしょう。


「さぁ、賢司郎さま、早う早う。こっちでございまさぁ。弥勒さまの右手の小指んとこ。
この棒使うて。賢司郎さま、あっちから上がんなしゃぁ。」
実際は、あってもなくても構わないような、小さな階段。
こゝから、少年時代の「賢司郎」君つまり「おじぃちゃん」は、弥勒さまの小指の玉虫を棒で突き。
「ホラタコの多吉」に騙されて、弥勒さまの右手を自分が折ったと錯覚したのですね(笑)。
玉虫はおらずとも、羽根の輝くハンミョウ(斑猫)はそこかしこに。
人の前を飛び跳ねるので、「道教え」とも。
「おじぃちゃんのお葬式は、もちろん、長恵寺でやった。ものすごく大勢の人が来た。」
会葬のロケも、この天寧寺の本堂でしたね。
ジョスランの子守唄
現存の一間一戸の山門の竜宮門と、右の「水」の字は水盤舎。


天寧寺の由緒書きは、上記を御覧下さい。
やはり、室町期には中国地方に有力な守護大名の栄えたのでしょう。
尾道には、足利将軍家と守護大名の関係を窺わせる寺院は多く。
水軍の拠点、水上交通の要所として、商いも繁盛し、尾道の活力の源となって参ります。
山門を出ると、すぐに石段と山陽本線のガード。線路は頭上、目線すれすれ。
尾道の海側と山側の境はこの線路。たいていガードを潜ります。踏切もいくつか。


お行儀のよい引用ではありませんが、この写真。右は昭和33年、姫路以西は非電化の頃。
寝台特急「あさかぜ」に、走るホテル、20系客車「ブルートレイン」のデビューする、数か月前か。
そういえば、往時の山陽本線は特急・急行街道。今日では、尾道を通る優等列車は一本もなく。
よく見ると、海の近いのに気づかれるでしょうか。
もっと以前は鉄道が海岸線だったといゝ、尾道水道は今よりずっと広かったそう。
おそらく、中世、義満の上陸した浜辺の目の前に、天寧寺の旧山門の聳えていたのでしょう。
長江口あたりまで下りると、もう汗だくで意識も朦朧と(笑)。
台風の余波の曇天ならばと参りつゝ、夏場の坂道はこたえます。


ワッフルの「こもん」は、「COMMON」と表記の改まり、装いの趣向も少々変わった感。
「それから間もなく、おばぁちゃんも、おじぃちゃんのところへ逝ってしもうた。」
♪…あの夏の日 あの夏の日よ 永遠に命あれ
エンディングで、「由太」君の住む横浜市青葉区の新興住宅地から、尾道へ場面転換。
「終わり」
実は、この映画をつい先日、初めて鑑賞したのです。
なぜか、故郷でもないのに、青春の心は、尾道の街に時空を超えて生きているように感じつゝ。
不偶、新旧尾道三部作のトリを見終えて、思わず一人で心得たり(笑)。