思いやりにならない「思いやり」


 神谷悠一氏著 集英社新書 

 一見、くだけた書名で、大衆本のようで開く気にはなれなかったが、レトリックとしては当を得ている。内容は、当たり前のことを確認する、という点では、よく整理されている。
 僕も、しばしば、安っぽい精神訓、と謂うごと、思考停止状態で「思いやり」の一語で皮相的にその場を済ませるのは、せいぜい、学校の先公の安っぽい説教と同じで、欺瞞と自己満足に過ぎない、ということ。何の解決にもならず、実は、よりいっそうの差別と絶望を与えている。今の学生や若者、いや大人全般の世代に至るまで、その程度の教育?機会しか与えられておらず、同じ程度でしか物事を捉えられなくなっている。 
 ハンディを負う者に寄り添い、その者の幸福を支援するには、なぜそういう境遇にあるのか、なぜそういう境遇を生むのか、原因を分析し課題を抽出し、その解決を構想しなければならない。人文、社会ともに極めて高度な科学を要する。その真摯な勉強力があって、はじめて相手を理解できるのと同時に、自己の認識不足を厳格に批判できる。「思いやり」は、そこではじめて本質と実効性をもつ。
 気分で「思いやり」と口にしていても、いざ、問題の本質に直面すると、認識と思考の不足から、忽ち、防衛本能が先に立ち、掌を返して差別をする側に帰る。所詮は、自分が属する既得権者の側に閉じ籠もることになる。本性を顕す。「思いやり」でも何でもない。
 果ては、同じ恵まれた属性にある者どうしで無意識に縄張りを巡らせ、安住し、気安めに「思いやり」という言葉を発し、良識者の仮面を被りやり過ごしていることになる。その実、ハンディを負うなど、僅かでも属性の異なる他者との間には、自ずとがちがちの境界壁を積み上げていく。 
 という、至って当たり前の話。

 でも、毎度、申すごと、僕らの学生時代…高校時代くらいまでは、本当の「思いやり」を追究する姿勢は受け継いでいたけれどな。人は、他者は、身近な相手は、どうあったら倖せなのかと。思春期、青春期にあって。いや、もっと子供の頃から。
 毎度、毎度、同じ申しようながら、バブル経済期の欲ボケ以降、高邁な思想と、思考のできる民度を失ってしまった。僕らの世代も同様に。結果、今日の、本当の「思いやり」、のない社会をもたらしている。

 書評にも何にもなっていないが、つまらぬ補足までに。